学徒隊動員 沖縄戦の「鉄血勤皇隊」編成、県が主体的役割
太平洋戦争末期の沖縄戦に動員された学徒隊「鉄血勤皇隊」の編成に当たり、沖縄県が旧日本軍と覚書を結び、学徒名簿を軍部に提出するなど主体的な役割を担っていたことが28日、米公文書で分かった。覚書は、防衛召集の対象年齢を下回る14?16歳の男子を戦場に送ることを当初から想定しており、学徒動員に対する教育・行政当局の責任を問い掛ける内。
◇軍と覚書、学徒名簿提出…米公文書で判明
鉄血勤皇隊は千数百人が動員され、半数以上が戦死。元隊員の証言により、1945年3月の召集以降の活動は知られていたが、編成に至る過程は分かっていなかった。複数の沖縄戦専門家は「学徒隊編成の作戦命令の内容を記した文書の発見は初めて。」
林博史関東学院大教授(現代史)が米国立公文書館で、沖縄守備軍だった第三二軍の作戦命令などを英訳した米陸軍文書を見つけた。教授は「兵役年齢に達しない生徒が超法規的に動員されていた」と分析。
沖縄侵攻作戦を担当した米第一〇軍が英訳した「鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書」は、沖縄県と第三二軍の合意内容を記載。「各学校ごとに鉄血勤皇隊を編成し、軍の緊密な協力下で軍事訓練を施し、非常事態となれば直接軍組織に編入し戦闘に参加させる」としており、当初から学徒の戦闘活動従事を前提に、行政当局と教育現場が連携した。
さらに覚書や添付文書によると、14?17歳の学徒に対し召集に備えた書類を作成するよう命じており、島田叡知事(当時)が学校を通じて集めた学徒の名簿を軍に提出し、それを基に動員する手順を明記。兵役を命じる防衛召集は当時、17歳以上が対象だったが、覚書は「14歳ならびにそれ以上で、通信訓練を受けている者を除く全学徒を同隊に編入。」
45年7月6日に英訳された同年3月3日付の第三二軍の作戦命令「甲第一一〇号」によると、当時の牛島満司令官(陸軍中将)が、学徒に軍事訓練を施し米軍上陸に備えるよう命じた。覚書は、命令が出される直前に作成された。
▽鉄血勤皇隊 太平洋戦争末期の沖縄戦で、沖縄県の師範学校や中学校などの男子学徒と教師で編成された学徒隊。旧日本軍の部隊に学校ごとに配属され、通信、情報伝達、食糧調達などの業務のほか、戦闘も命じられた。女子学徒は看護要員として動員され、学校別に「ひめゆり学徒隊」「瑞泉学徒隊」などと呼ばれている。ひめゆり平和祈念資料館(沖縄県糸満市)によると、沖縄県全体で少なくとも男子学徒1513人が動員され810人が戦死、女子学徒は505人動員され189人が戦死。
▽「鉄血勤皇隊」の編成過程に関する文書を発見した関東学院大の林博史教授(現代史)の話 学徒たちの戦場での体験は多くの関係者によって語られてきたが、鉄血勤皇隊編成の経緯はこれまでよく分からなかった。編成方法や訓練実施などを詳細に定めた旧日本軍と沖縄県の覚書など、その空白を埋める史料が残っていたことは驚きだ。
今回の史料から、県知事が学徒隊編成の責任を負っていただけでなく、学校とともに生徒の名簿を作成して軍に提出するなど、兵役年齢に達していない生徒の軍事動員を積極的に担ったことが明確になった。超法規的な召集は行政と教育機関の協力なしには実現しなかったはずだ。
これまでは行政当局が軍の被害者のように語られてきた傾向があるが、軍と行政、教育機関が一体となって子どもを戦場に駆り立てていった戦時体制の在り方にも注目すべきだ。沖縄県は米国での公文書収集活動を打ち切る方向のようだが、貴重な資料はまだまだ埋もれており、沖縄戦の実相を明らかにするためにも収集を継続すべきだ。
▽沖縄戦に詳しい保坂広志琉球大教授(社会学)の話 旧日本軍の命令書は大方処分され、米軍が入手し翻訳したものが残っているが、学徒隊に関するものは過去に見つかっていなかった。今回の文書発見により、軍だけではなく、行政の長である県知事が学徒隊の動員に大きく関与していた。文書は軍と県当局が組織的に学徒を戦闘員として動員する意図を明確に示している。子どもをコントロールするために教師も動員するなど手法も巧妙。
◇軍と覚書、学徒名簿提出…米公文書で判明
鉄血勤皇隊は千数百人が動員され、半数以上が戦死。元隊員の証言により、1945年3月の召集以降の活動は知られていたが、編成に至る過程は分かっていなかった。複数の沖縄戦専門家は「学徒隊編成の作戦命令の内容を記した文書の発見は初めて。」
林博史関東学院大教授(現代史)が米国立公文書館で、沖縄守備軍だった第三二軍の作戦命令などを英訳した米陸軍文書を見つけた。教授は「兵役年齢に達しない生徒が超法規的に動員されていた」と分析。
沖縄侵攻作戦を担当した米第一〇軍が英訳した「鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書」は、沖縄県と第三二軍の合意内容を記載。「各学校ごとに鉄血勤皇隊を編成し、軍の緊密な協力下で軍事訓練を施し、非常事態となれば直接軍組織に編入し戦闘に参加させる」としており、当初から学徒の戦闘活動従事を前提に、行政当局と教育現場が連携した。
さらに覚書や添付文書によると、14?17歳の学徒に対し召集に備えた書類を作成するよう命じており、島田叡知事(当時)が学校を通じて集めた学徒の名簿を軍に提出し、それを基に動員する手順を明記。兵役を命じる防衛召集は当時、17歳以上が対象だったが、覚書は「14歳ならびにそれ以上で、通信訓練を受けている者を除く全学徒を同隊に編入。」
45年7月6日に英訳された同年3月3日付の第三二軍の作戦命令「甲第一一〇号」によると、当時の牛島満司令官(陸軍中将)が、学徒に軍事訓練を施し米軍上陸に備えるよう命じた。覚書は、命令が出される直前に作成された。
▽鉄血勤皇隊 太平洋戦争末期の沖縄戦で、沖縄県の師範学校や中学校などの男子学徒と教師で編成された学徒隊。旧日本軍の部隊に学校ごとに配属され、通信、情報伝達、食糧調達などの業務のほか、戦闘も命じられた。女子学徒は看護要員として動員され、学校別に「ひめゆり学徒隊」「瑞泉学徒隊」などと呼ばれている。ひめゆり平和祈念資料館(沖縄県糸満市)によると、沖縄県全体で少なくとも男子学徒1513人が動員され810人が戦死、女子学徒は505人動員され189人が戦死。
▽「鉄血勤皇隊」の編成過程に関する文書を発見した関東学院大の林博史教授(現代史)の話 学徒たちの戦場での体験は多くの関係者によって語られてきたが、鉄血勤皇隊編成の経緯はこれまでよく分からなかった。編成方法や訓練実施などを詳細に定めた旧日本軍と沖縄県の覚書など、その空白を埋める史料が残っていたことは驚きだ。
今回の史料から、県知事が学徒隊編成の責任を負っていただけでなく、学校とともに生徒の名簿を作成して軍に提出するなど、兵役年齢に達していない生徒の軍事動員を積極的に担ったことが明確になった。超法規的な召集は行政と教育機関の協力なしには実現しなかったはずだ。
これまでは行政当局が軍の被害者のように語られてきた傾向があるが、軍と行政、教育機関が一体となって子どもを戦場に駆り立てていった戦時体制の在り方にも注目すべきだ。沖縄県は米国での公文書収集活動を打ち切る方向のようだが、貴重な資料はまだまだ埋もれており、沖縄戦の実相を明らかにするためにも収集を継続すべきだ。
▽沖縄戦に詳しい保坂広志琉球大教授(社会学)の話 旧日本軍の命令書は大方処分され、米軍が入手し翻訳したものが残っているが、学徒隊に関するものは過去に見つかっていなかった。今回の文書発見により、軍だけではなく、行政の長である県知事が学徒隊の動員に大きく関与していた。文書は軍と県当局が組織的に学徒を戦闘員として動員する意図を明確に示している。子どもをコントロールするために教師も動員するなど手法も巧妙。
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